2020-04-06 第201回国会 衆議院 決算行政監視委員会第二分科会 第1号
税制については、釈迦に説法になりますけれども、アダム・スミスやワグナーやマスグレイブのいろいろ条件、原則があるようでありますけれども、それを簡単に、基本的な要素にすると、公平、中立、簡素、この三つに集約されると言われております。公平、中立、簡素ですよ。消費税が本当に公平で中立で簡素な税金ですか。全くわからない、ブラックボックス、国民には全く教えない。
税制については、釈迦に説法になりますけれども、アダム・スミスやワグナーやマスグレイブのいろいろ条件、原則があるようでありますけれども、それを簡単に、基本的な要素にすると、公平、中立、簡素、この三つに集約されると言われております。公平、中立、簡素ですよ。消費税が本当に公平で中立で簡素な税金ですか。全くわからない、ブラックボックス、国民には全く教えない。
我々は、少なくとも、働くということに関して、神との契約を破ったアダムに対して神が与えたもうし罰が労働でありますから、元カトリックで、元カトリックというか今でもカトリックですけれども、一応聖書ぐらい読んだことはありますので、労働は罰であります。
日本人は、アダムとイブが禁断の木の実、リンゴを食べた罰として労働があるといった西洋の根本思想と違い、日本神話では、神々が稲作をして布を織るといった、労働は罰ではない文化でした。
大臣、今、前川前次官が話した話、そして松野文科大臣が話した話と比べると、大臣の話というのは、本当に、経済学の教科書のアダム・スミスの需要曲線と供給曲線が合うところという、全く何か全然違うところでの議論が行われております。おかしいと思いませんか、大臣。
したがって、そこをどう調整して均衡に行くかというのは、アダム・スミスが言ったように、神の見えざる手で任せるしかないんだと。 それはどういうことかというと、需要、例えばペットの診療について需要曲線があります。恐らく、供給が限られていますから、一定ですから、そうすると、現時点どこというのは恐らく高止まりで、価格が高止まりのところで均衡が達成されているという状況だと思います。
だからこそ、経済学の始祖のアダム・スミスは、神の見えざる手というもので調整するしかないと言っているわけですよ。 つまり、数字的に需要が幾らというのは、そんなことは誰も言えないんです。だけれども、数字としてできないんだけれども、需要がある程度あるかどうかということはきちっと証明できます。
突然、アダム・スミスになってしまいました。需要について直接答えるのは困難、定量的に把握することは困難、こういうふうに内閣府は答弁しています。つまり、もうこの時点で条件に当てはまらないという、ギブアップしちゃっているんです。ニーズがない、わからないんです。 そして、条件の三番目、既存の大学、学部では対応が困難な場合に限るとされています。これについて、内閣府はこう答えています。
価値観を変えて解決する一助は、経済分野でいえば、アダム・スミスでいえば、神の見えざる手から市場の見えざる心に比重を高めることです。寄附文化醸成や社会的インパクト投資などの導入を進め、サミットでの提言を望みます。
それに対して、いや、もうこれは正しいんだからこれを前提にしなさいという議論に対して、私ども財政学はこの所得分配を財政が修正することによって正しくなり得るんだという考え方に立っておりますので、それまでは、それまでの財政学というか、アダム・スミスなどは比例的な所得税しか認めていなかったのを累進性所得税を導入いたしますので、累進性をやるということは、そもそも税収が上がるかどうかということもさることながら、
二〇〇七年、インドネシアのLCCであるアダム航空の事故では百人を超える乗員乗客が犠牲になりました。これは、パイロットが判断を誤って操縦桿を引き続けたために墜落したと。インドネシア政府は、緊急事態に対応するパイロットの訓練を怠っていたなどとする調査報告書をここでも発表をしているわけであります。 政府はこの間、LCC推進のために規制緩和というのを行ってまいりました。
神がアダムに対し労働は罰として与えていますからね。したがって、考え方の根本が違うんですよ。だから、仕事を辞めたときには出所祝いと同じでみんな盛大に祝うわけですよ。違いますかね。 それに比べて、日本はどんな出世した人でも会社を辞めていくときはとぼとぼと会社を去るんじゃないですか。僕はおやじを見ていてつくづくそう思いましたよ。
アダム・スミスのように自由貿易によって国際関係が安定するとか、あるいはイマヌエル・カントのように共和主義の成立によって世界が安定するとか、そういった非常に理想主義的な考え方がヨーロッパやアメリカで広く持たれた時代ですけれども、それが後退したのは二つの転機によるものでした。 一つは、アフガニスタンとイラクへの介入です。
一番いい例が、イギリスが工業化に成功したというのはアダム・スミスの国富論ということになっていますが、アダム・スミスは、倫理学と道徳学と法律学、そして四番目に経済学を学びました。御本人は、倫理学あるいは道徳学が生涯の研究テーマということでした。
よく六十五、七十であればみんな働く人はいっぱいいますけど、外国人のあれは、宗教、ちょっと宗教を持ち出すのはいかがとは思いますけれども、やっぱり旧約聖書では労働は神がアダムに与えたもうし罰ですから、あれは。だから、労働というのは罰ですから、退職というと、みんな出所祝いみたいにわあっと喜んでシャンパン抜いて大騒ぎ。みんなそうですよ。外国に住んだ人ならみんな知っていると思うよ。
○国務大臣(茂木敏充君) 経済学は時代を経て様々な学説が主流になるわけでありますが、市場の在り方、アダム・スミスが見えざる手といった形で市場の機能に着目をいたしまして、その後マルサスの人口論であったり、また、シュンペーターがイノベーション、そして、一九八〇年代からシカゴ学派を中心にしてマネタリストと、こういうのがアメリカにおいては主流になる。
例えば、これは政府あるいは政府の関係者ではありませんけれども、ICUの八代先生が次のように述べておられて、輸入小麦に高関税を課して国の独占販売で利益を貪る仕組みもある、これは十八世紀にアダム・スミスが批判した国家独占貿易の現代版であるが、こうした不透明な仕組みもTPPに加入すれば改革せざるを得ない、これはTPPに加入すると日本の国内制度が外国の圧力で維持できなくなるという反対論の背景ともなっているというふうに
見えざる手というのをアダム・スミスがどういう意味で使ったかはアダム・スミス学者がいろいろ研究しているそうでございますが、結局、自由な市場のもとでできた価格は理屈抜き。例えば、なぜペットボトルに入っている水が百五十円あるいは百六十円なのかということを、我々顧客は、まず人件費は幾らなんですか、光熱費は幾らなんですか、そんなことは一々言わないわけです。
そもそも、そういう現場の、臨床の数字を御覧にならなくてアダム・スミスが書いた経済理論だけで議論するから話がおかしくなるんです。実際には、日本では、人口が減ると減るのは報酬、雇用者報酬であり、そしてそれを、現役を相手にしたお店の売上げが減るんです。 実は、これで生産調整をして売るのをやめればデフレになりません。ところが、企業はついつい機械が生産するので作り続けます。その結果、値崩れが起きていく。
少なくとも旧約聖書に全く違反しているわけですから、労働は罰として神がアダムに与えたことですから。日本では労働は罰ではありませんから、そういった意味では、私どもは労働は美徳として、少なくともアマテラスオオミカミですら機織り小屋から出てきて機を織っておったわけですから。
これをアダム・ポーゼンはポリシーディフィータリズム、政策における敗北主義というふうに呼んでおりまして、現在、例えばアメリカの文脈では、日本に見られたような政策敗北主義が経済政策の手足を縛っているんだという形で提言をポーゼン自身が行っていたりする。
ですから、たしかあのアダム・スミス以来、この租税の原則というのは、人によっては三条件があったり、人によっては五条件があったり、マックス・ウェーバーは十条件あったり、そういう意味では非常に多面的ですから、その中で何を重視するかというのは、その時々の置かれている状況によって租税原則というのは、私は何を重視するんだということを前面に出してもいいんではないんだろうかというふうに思っております。